コーヒーシュガーと夜空

夕方5時過ぎにもなって、髪を切りに出かけた。日曜を何もせずに過ごす午前の優越感は、午後に何もしなかったという罪悪感へ変わる。シャンプー台でゆっくりと横になるときに見えた夕焼けはこんがりとしていて、赤いというよりはコーヒーシュガーの色に近かった。

 

コーヒーシュガーが溶けると、夜がやってくる。

 

横になったまま、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 

髪を切り終えた頃、外はすっかり暗くなっていた。夜空に残る明るさのまばらなコーヒーシュガーのかけらが、少しばかりの香ばしい風を漂わせるから、僕は尚更甘いようで苦い休日を味わった。

青い車

僕はカフェの窓から、駐車場に止まっている青い車を見つけた。青といっても、群青色に近くて上品なつやのある、あまり見たことがない色だった。


その左隣には、赤い車が止まった。これまた赤といっても、えんじ色よりやや深みのある、静かな強さを感じさせる色だった。


車はひっきりなしに駐車場へ入ってくるのだけれど、青い車の右隣はなかなか止まらない。白い車たちは、赤と青の素敵な車と並ぶには腰が引けて、そそくさと離れたところに陣取ってしまう。


僕は、赤と青の車の隣には何色の車が似合うか考えていた。黒光りしたハイヤーは、謙虚さに欠けるので相応しくない。かといって黄色い車も元気があり過ぎる。上品だけど気取らない、そんな車を僕は求めていた。


結局その隣のスペースに、白いやんちゃなワンボックスカーが勢いよく突っ込んできたせいで、僕の席から青い車が見えなくなってしまった。これにはほかの白い車たちもため息をついて、窓ガラスを曇らせていた。おまけに、そのワンボックスカーの側面にべったりと貼り付いた鳥のフンが、窓越しに僕のところへ飛び移ってきそうで、僕はもうコーヒーを飲む気すら失せてしまった。


そのとき、チリーンと軽快な音を鳴らし、深緑色の自転車が通った。鈍い光の金属と、見事に調和した色。そうだ、ぼくはあんな車を待っていたのだ。


そう思うと僕はますます悔しくなって、窓のブラインドを下ろした。


しばらくするとエンジンの音がしたので、ブラインドを少し上げて外を見たら、青い車はいなくなっていた。僕は少し後悔した。つまらないことで、見送ることも出来ずに別れてしまったあの子。僕はいつも同じことを繰り返してしまう。

川と石

町の北側にある川は、隣町との境界線だ。橋は最近新しくなり、対岸へ渡る人々も随分多くなった。新しい橋に浮かれる者とは対照的に、岸では浮かない顔つきで考え事をする者があちこちに座っていた。フィリップもその中の一人で、川に石を投げながらつぶやいていた。


「新しいことを発見したと思ったら、もうすでに誰かが知っていることだったし、新しいことを思いついたと思ったら、もうすでに誰かが実行してることだったし、僕の毎日の新しさなんて、みんなにとって少しも新しくないのかと思うと、すっかりやる気をなくしてしまうよ!僕はこのまま使い古された日常の小さな山谷に一喜一憂しながら、その山谷を大きくする影響すら持たず、ただ土に埋もれていくのかな。だとしたら、僕の人生ってなんてくだらないのだろう!」 

投げられる石は、次第に大きくなっていく。

「本当はもしかしたら、僕の発見が今までにないものかもしれないんだけど、過去が今を食べるスピードが速すぎるから、それを調べているとすっかり過去に飲み込まれて、僕も昔いたそのへんの誰かのひとりにされてしまうんだ。あぁ、せめて過去がもう少しゆっくりと僕らを追ってくれればいいのに!そうすれば、僕らの訳もない焦りの芽生えを抑えることが出来るのに!」
 
とうとう投げる石がなくなると、フィリップは立ち上がって歩き始めた。
 
「石を投げれば、川は一瞬混乱し、水の流れを変える。でも石が川底に沈んだ後は、また何事もなかったように元の流れに戻る。僕らの様な平凡な人間の影響力って何て小さいんだろう。」

悲しいことなんてないさ

悲しいことなんてないさ
僕が住むこのビルは
雨雲の色を吸い過ぎて
すっかり湿っぽくなってしまったけど
君が住むあの家は
海の色を反射して
いつだって青く煌めいてる

 

目に浮かぶのは
空との境界線がない
あの青い家
ある日は空となり
ある日は海となる
僕らは鳥たちを迎え入れ
魚たちとたゆたう

 

わけあって今はそこへ戻れないけど
雲の隙間から見える青い空が
僕を呼び止めて
君の元気な様子を教えてくれる

 

悲しいことなんてないさ

雲と風

随分と長く外で君を見かけていない。君が前のように外へ出たいと思うまで、外の知らせを書こうと思う。
 
今日は雲が厚くて太陽が見えない。といっても雨が降りそうではなく、ただ白い空がのっぺりと広がっているだけだ。でもこういう特徴のない空が一番危険っていうのは知っている。じわじわと君の心を蝕んでいって、気づいたときには重くてじめじめした心に自分自身が沈んでいくような感覚になる。
 
それを解く鍵は、気まぐれに現れる太陽か、みずみずしい春の花だけど、それにすがり過ぎてもよくない。彼らは君のために生きていない。力を借りることはできるが、君の一部にはならない。
 
それよりは風の方がよい。時に強く君の心のほこりを払い、時に優しく君の湿った心を乾かす。風は横を通り過ぎるだけで、君のそばにはいないけど、心が何も吸えなくなる前に、君を揺らして目覚めさせる。
 
雲が動くから風が吹くのか、風が吹くから雲が動くのか、僕にはわからない。だけど、それを調べることが、君の外へ出る理由になるなら、僕は何も知らないままにしておこう。

予定を立てないという選択

僕は明日の予定を立てることをやめた。

明日のすべきことに縛られたくないという思いもあるけど、やりたいはずのことが、むしろ僕を追いかけてくるような切迫感に変わることへ嫌気がさして、明日を考えることをしなくなった。

未来の目標へ辿り着くための近道として計画を促してくれるのはありがたいことだが、僕はむしろ遠回りしてでも気が楽な方がいいし、そもそも未来の目標自体が平野のあちらこちらに散乱していて回収困難だから、計画など立てようがないのだ。

僕は明日のことで悩まないし、未来のことで苦しまない。計画に催促される人生は潔く諦めよう。まだ見ぬ世界は恐れるために存在しない。